"キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、領内での取り締まりを命じられても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて、領内のキリシタンを護ったと『日本切支丹宗門史』に記載されている(記事の原文は、1629年7月、会津若松の宣教師からイエズス会総長に送られた報告書である)。当時のイエズス会宣教師ペドロ=モレホンは景勝を評して「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」と述べており、景勝自身がキリシタンに好意を有していた訳ではないといわれているが、長年苦楽を共にしてきた有能な家臣たちを失いたくなかったためと伝えられている。実際、元和6年(1620年)の仙台藩を皮切りに東北諸藩がキリシタンへの弾圧を開始するなか、米沢藩では景勝が元和9年(1623年)3月に没するまでの間、幕府の禁教令を受ける形でキリシタン禁制の高札を領内に立てこそしたが、実際にキリシタンへの取り締まりや弾圧を行った記録などは残されていない[14]。"
- 上杉景勝 - Wikipedia